500DL記念の後日談SSになります。ヒロイン視点の小説です。
ネタバレを含みますので、ご視聴後の閲覧を推奨します。
それぞれの明日
「赤ちゃんって、本当にばぶうって言うんだね」
ずりずりと床を這いまわる葵を眺めながら呟く私に、朔太郎さんが洗濯物を畳む手を止めてこちらを見た。
「漫画とかアニメだけの表現だと思ってたんだ。でも今日葵が私にばぶうって喋ってさ。朔太郎さんにも聞かせたかったなあ」
「ふふ、子育てって実際に育ててみないと分からない事や気付かない事ばかりだよね。僕も葵が産まれるまで色々育児書を読んで勉強したつもりだったけど、いざ産まれてみたら本で読んだ事なんて大して通用しなくて……」
朔太郎さんの視線が葵へ向かう。その視線に気付いたのか、葵があうあうと涎を垂らしながら嬉しそうに朔太郎さんへ向かっていった。
葵(あおい)……私と朔太郎さんの子どもである男の子が産まれてから半年。
毎日が目まぐるしくて新鮮で、この半年は本当にあっという間に過ぎてしまった。
産まれた時はあんなに小さくてフニャフニャで寝返りも打てない存在だったのが、今じゃ泣いて笑って這いずり回って目が離せない。
葵は、あっという間に私達の生活の中心に来て、ニコニコと笑顔で居座っている。
「すごいなあ、葵。もうこんなにハイハイ出来るようになったのか」
目を細めながら、朔太郎さんが葵を抱き上げる。葵に触れる朔太郎さんの手はいつも優しい。
「あ、そうだ朔太郎さん。会社に挨拶に行くの、来週の火曜にしたから」
「……え?」
葵を抱き上げていた朔太郎さんの動きが止まる。さっきまでの笑顔は消え去り、どこか怪訝な顔をして私を見つめている。
「その……本当に職場復帰するつもりなの? お金の事なら僕が株で運用してる利益もあるし、そんなすぐに働かなくても……」
「朔太郎さんくどい! その事はもう何度も話し合ったじゃん! 私が通いやすいように会社近くに引っ越してくれたし賛成してくれてるんじゃないの?」
「それは葵が間違ってベランダから落ちでもしたら危険だから低層マンションに引っ越したのが一番の理由で、君の会社の近くにしたのはついでだよ」
「ついで? 私の事を考えての事だと思ったのに……」
何気なく返された言葉が地味にショックで、思わずムッとした視線を投げ掛けてしまう。
いつもの朔太郎さんならそんな私の様子を見て優しく言葉を返してくれるのに、今日の彼は違った。
「考えてる! ……考えてるよ。だからこそ、君の事が心配なんだ。君の妊娠を主任に報告した時、あの男がなんて言ったか覚えてるだろ? 『無責任に妊娠したツケはきちんと払ってから産休に入れよ』だなんて……君は嫌味言われちゃった〜なんて笑って僕に報告して来たけど、僕は腸が煮えくり返る思いだった。ああ、駄目だ……今思い出してもイライラしてくる……!!」
「で、でもさ! 何だかんだ言って出産祝いとか送ってくれたし、主任もきっともう、何とも思ってないんじゃないかな」
「そんなの総務かどこかに言われて義務的に送っただけだろ。僕は彼の人間性が……」
「ふえ……っふえええん!!!」
突然のつんざく様な泣き声に、朔太郎さんがハッとして葵を見る。
「ああっ! 葵ごめんね。よしよし、ほら泣かないで……」
慣れた手つきで背中をさすりながら立ち上がって、ゆっくり体を揺らし始める。
朔太郎さんに抱っこされた葵は最初こそ泣いていたものの、朔太郎さんの心地よい体温と振動に段々とその声は薄れていき、やがて規則的な寝息に変わっていった。
朔太郎さん、本当に寝かしつけが上手だなあ。
葵が産まれた頃から、朔太郎さんはこうやってよく葵を抱っこして寝かしつけてくれる。延々と泣き続ける葵を根気強く抱っこし続けてくれて……。
三時間置きの授乳で寝不足でへとへとの私の目に、葵を抱っこする朔太郎さんがまるで聖母マリア様みたいに輝いて見えたっけ。
そう……いつだって朔太郎さんは私の事も葵の事も一番に考えてくれてる。
普段の行いからそれは十分伝わってるのに、私ったらワガママだな。でも……。
「朔太郎さん、ごめんね。私の事を思って言ってくれてるのはすごく分かるんだ。でも私、仕事が好きなの。お金だけじゃなくて……私が私らしくいられるっていうのかな。自分がこれだって決めた道、簡単には諦めたくない。復帰の事で主任に多少意地悪されたって大丈夫! ほら、私って鈍感だからさ! 意地悪されても案外気付かないかも……」
身振り手振りで説明しようとする私を見て、朔太郎さんからくすりと笑みがこぼれた。
「……君は強いね。僕の方こそ、しつこくてごめん。本当は僕が主任と君が一緒にいるのが嫌なだけなんだ。僕の幼稚な独占欲で、君の自己実現の邪魔なんかしたくない。いいよ、思う通りにやってご覧。日中の葵の面倒は僕に任せて。幸い売れない小説家なもんで時間だけはたっぷりあるからね」
「朔太郎さん……」
「ただし、来週の会社への挨拶には僕と葵もついていくから」
「え、でも部外者は入れないよ?」
「もちろん、外で待ってるよ。会社の近くに大きめの公園があるだろ? 挨拶が済んだら家族で散歩でもしよう。君の好きなケーキ屋さんのお菓子でも持って、ちょっとしたピクニックみたいにさ」
「うん……いいね、それ!」
朔太郎さん……きっと私が会社で嫌な思いをするのを見越してこんな提案をしてくれるんだろうな。朔太郎さんのさりげない優しさに、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。
「ああ、よく来たな……ええと、今は枇々木と呼べばいいのか」
「お久しぶりです主任。あの、出産祝いありがとうございました。今日は部署の皆さんに出産祝いのお返しと復帰についての件で伺いました」
久しぶりのオフィス。やっぱり少し緊張するな。
特に主任の前だと、この間の朔太郎さんとの会話を思い出して変に警戒してしまう。
「出産祝いは別に俺の発案じゃなくてあいつが……ゴホン。それより、赤ん坊は連れて来なかったんだな」
「はい、ご迷惑になるかと思って……。あ、でも外で夫と一緒に待っててくれてますよ。ほら、あそこに」
すぐ近くにある窓に駆け寄り、外で待っている朔太郎さんを指さす。
小さく手を振ると、遠巻きながらも朔太郎さんが手を振ってくれるのが分かった。
けれど、その振っていた手がはたと止まる。
「ふうん、あれがお前の旦那ねえ」
背後で主任の声がする。窓越しに主任と朔太郎さんの視線が交差しているのか、何だか背後から妙な圧を感じて、背中がぞわぞわする。
「抱っこ紐で赤ん坊なんておぶっちゃって、まあ……あーいうの、イクメンとか言うんだろ? 俺にはあんなノリ無理……ひぅんっ!?」
「ど、どうしました主任?」
突然、苦しそうな声を上げた主任に驚いて振り返る。
「な、なんでもない……その、ちょっと喉の調子が悪くてな……んンッ!!」
「もしかして……この方が育休で休んでらっしゃる方ですか?」
苦しそうな主任の背後から、私と同じくらいの年齢の女性が顔を出した。
にっこりと笑いかけられ、つられて私も笑みを返す。
「はじめまして! 枇々木と言います。そうです、今日は皆さんに出産祝いのお返しと復帰の件でお邪魔してて……」
「こちらこそ、はじめまして。この度はご出産おめでとうございます」
丁寧に頭を下げられる。礼儀正しい人だなあ。この人が私の産休の代わりに入った中途採用の人なのかな?
「な、なんだか会社の方からおめでとうって言われると照れちゃいますね……」
「あら? 今までご一緒だった主任からはお祝いの言葉は頂かなかったんですか?」
ちらりと主任に視線を向ける女性に、何故か主任の体がびくりと震えたように見えた。
「お、俺だって祝いの言葉の一つや二つくらい言うつもりでいたさ。なんだ、その……」
どうしたんだろ?
いつものはっきりした物言いの主任らしくなくて、目を泳がせて言葉を選んでる感じ。
やがて何か思いついたように、ゆっくりこちらに顔を向けた。
「……おめでとう」
「あ、ありがとうございます」
今までみたことない、ふんわりした優しい笑み。主任ってこんな顔も出来るんだ……。
「さ、これから人事との面談や総務への書類提出やら色々あるだろうから手短に済ませるとしよう。改めて俺から紹介する。彼女は……」
「……でね、中途採用で入ったその人も私と年が近くて、仲良くなれそうなんだ」
「良かった、味方は多いほうがいいからね。主任に何か言われたりしたら、その人にも相談してみるといいよ」
「もー朔太郎さんたら、大丈夫だって! さっきも話したけど主任、なんか雰囲気変わってたんだよね。なんだろう……優しくなった? もしかして、彼女でも出来たのかも」
夜も更けて……こうしてソファに座って葵に授乳しながら今日一日あった事を語り合うこの時間が一番好きだ。
ゆっくりと流れる家族の時間が、今日の疲れも明日へのエネルギーも養ってくれる。
そんな感じがする。
「僕としてもそうでいてくれるとありがたいな」
どこかため息交じりで答えながら、朔太郎さんが深くソファにもたれかかる。
「……」
何だろう。さっきから朔太郎さんから視線を感じる。
ちらりと横目で伺えば、おっぱいを飲んでいる葵をじっと見つめているようだった。
「葵も美味しそうによく飲むね。僕に似て大きくなりそうだ」
「朔太郎さんも飲んでみる?」
「ははは、葵に悪いから止めておくよ」
「うんうん、朔太郎さんはおっぱいは吸われるほうが好きだもんね?」
「ぶっ!? いや……その……」
私の切り返しが意外だったのか、朔太郎さんが面食らった顔をしてこちらを見る。
「違うの?」
「いや、違わない……です」
観念したように朔太郎さんが、こくりと頷く。
頬を赤らめた様子の彼がたまらなく愛おしくて、爪で朔太郎さんの乳首を引っ搔いてみた。
「あ、こら……んっ……!」
ちょっと触っただけで体を震わせる朔太郎さん……ほんとに可愛いなあ。
「あのさ……葵もおっぱい飲んで眠っちゃったし、久しぶりに……する?」
「え……?」
驚きと、どこか艶めきが交じった朔太郎さんの声にぞくりと体の奥が疼く。
「僕はいいけど……その、君は大丈夫なの?」
「私なら大丈夫。可愛い朔太郎さんの声聞いてたら、何だかもっとしてあげたくなっちゃった」
ソファのすぐそばに敷いたままのお昼寝用の布団に、そっと葵を寝かせる。
口をもごもごと動かしながら、気持ちよさそうに寝息を立てる葵。
ごめんね、ちょっとの間だけそこで寝ててね。
優しく頭をひと撫でして、朔太郎さんに向き直る。
「朔太郎さん……」
「あ……ごめん、僕……想像しただけでもう……」
どこか熱を含んだとろみのある瞳が、遠慮がちに私を見つめる。
「私の体を気遣って、ずっと我慢してたんだもんね……いいよ。今日はいっぱい気持ちよくなろうねぇ」
ゆるく反応しだした股間の膨らみをさわさわと指で撫でれば、面白いくらいビクビク腰をくねらせる朔太郎さん。
本当に可愛い……。
「あ…ンんっ……うん。して……いっぱい気持ちよくなりたい……乳首、ずっといじめて欲しくて僕、切なくてぇ……ふぁっ……!」
普段、理知的な彼が子供みたいに私におねだりするこの瞬間、胸がギュッとして堪らなくなって何でもしてあげたいと思っちゃう。
「じゃあ、寝室のベットで続きしようね……」
ソファで悶る朔太郎さんを立たせて、寝室へ誘導する。
これからは夫婦の時間。
肌を重ねる度に実感するんだ。
あなたの存在を、出会えた奇跡を、そして産まれた命の尊さを。
一つでも欠けたら存在しない今この瞬間が、とても愛おしくそして怖いものだと。
そんな事を思いながら、私は静かに寝室の扉を閉めた。